能登半島地震

皆様既に御存知かと思いますが、平成19年3月25日(日)午前9:42に震度6強の大地震が能登半島沖で発生しました。連日、ニュースや新聞等々で被害状況が目に飛び込んで来ていたかと思います。

能登半島地震

あれから早くも1ヶ月が経とうとしていますが、まだまだ沢山の問題を抱えております。全半壊した方々の住まいの問題。地震の影響で歪んだ町の道路などの劣悪な環境問題。まだ整備不能地域が存在する断水などのライフライン問題。伝統工芸や地域産業における再振興問題。残された問題は幾知れずです。

能登半島地震

私は今回の震災で一番被害の大きかった輪島市門前町に住んでいます。非常に過疎化が進んでいるこの町は今、隣近所、そして地域住民が手を取り合って日々、復興に向け勇往邁進しています。 皆さん、よくよく思い返して下さい。今回の震災で、報道各社のインタビューを受けた被災者が、涙を流しネガティブな発言をした人がいたでしょうか?地元民である私の周りにはそのような人は誰一人としていません。

能登半島地震

ニュースなどで見る被災者の言葉達は『しょうがないわいね』『何とかせんとねぇ』『さぁてどうしようかいね』『何か考えんといかんねぇ』こんな言葉達ではなかったでしょうか? 決して能天気ではなく現実逃避でもないのです。しっかりと現実を受け止めた上で、前を向きそして空を見上げ、これから生きる為の道を発生当日25日の段階から模索し始めていたのです。 先にも言いましたが、この輪島市門前町という地域は過疎地です。この町で生まれ育った若者は高校を卒業すると同時にこの町を離れていきます。必然とこの町に残るのは高齢者ばかりです。 その高齢者達の、町を離れた息子・娘は今回の震災で我が親の安否を確認し、そして全壊もしくは半壊した家の後片付けの手伝い、そして今後のことについての話し合いの為に地元を訪れようとしましたが、親たちは我が子が来ることを拒むのです。 余震が続きまだまだ危険が眠っているこんなところへは来させたくない。その思いだけで拒むのです。

能登半島地震

“能登は優しや海までも”という言葉があります。意味は説明するまでもないのではないでしょう。感じて感じていただけると思います。 こんな悲惨な事態に陥りながらも我が子の心配をするほど優しい人達の集まりなんです。そして何よりも心が強いのです。 Uターンでこの町に戻った数少ない若者の内の一人である私は、優しく強い大人たちと共に、全国または各国から寄せられた励ましの言葉と義援金に心の中で合掌しながら、日々、復興に向けて励んでいます。 またこの町が大きな笑顔を抱えるその日がくるまで。

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