これを機に布教伝道の中心を神奈川県横浜鶴見に移しました。当時は、祖廟として次々に堂宇が再建され、山内約2万坪の境内には焼失をまぬがれた伝燈院、慈雲閣、経蔵などがたたずみ、また、七堂伽藍も再建され、威厳と風格を今に伝えています。山水古木と調和し、風光幽玄な曹洞宗大本山の面影をしのばせ、一大聖地として現在に至っています。
峨山道
大本山總持寺祖院と羽咋市の永光寺を結ぶ約13里(約50キロ)の山道です。暦応3年(1340年)から両寺の住職を兼ねていた峨山禅師が、20年以上にわたって往来した道だといわれています。
猿山岬灯台
奥能登最後の秘境といわれる猿山岬灯台は、濃い緑の中、青い海に向かって立つ白い灯台です。海抜200メートルの断崖が続く岬で、ひときわ目を引く存在です。灯台からは男性的で豪快な眺めが堪能でき、それはまさに絶景です。
雪割草
猿山岬灯台から深見地区まで3.4キロ、徒歩約1時間30分の自然歩道があります。春先には可憐な雪割草が私たちの目を楽しませてくれます。雪解けのころ、海風に耐えながら白、薄桃、深紅など色とりどりの愛らしい花を咲かせます。3月中旬から4月上旬にかけて、色とりどりの花が目を楽しませてくれます。花言葉は「忍耐」。 (猿山雪割草環境保全推進協力金について) 能登半島国定公園特別保護地区に指定されている猿山山系は、山野草ブームや自然志向を反映し、遊歩道の荒廃や雪割草の盗掘、踏み荒らしなどの影響が出てきており、地元住民等の協力により、この自然景観の保全に取り組んできましたが、高齢化や過疎化が進み、今後継続していくことが困難な状況となっています。そこで、その保全活動の費用を補うため、のと雪割草のみちを利用される皆様に、一人あたり300円の協力金をお願いすることといたしました。貴重な自然遺産を守るため、皆様のご理解とご協力をお願いいたします。
門前モータースポーツ公園
1992年、日本海側初のダートトライアルコースとしてオープンしました。JAF公認第二種コース、施設総面積82,915平方メートル、砂利路面、一部アスファルト舗装、最大直線約300m。大自然の中で起伏にとんだコースでの走行が楽しめます。
黒島天領北前船資料館
黒島町は貞享元年(1684年)徳川幕府の直轄地となり、日本海鎮護の神として若宮八幡宮に立葵の御紋を贈られました。回船問屋の土蔵を模した館内には、航海の安全を祈願した船絵馬や、羅針盤、和磁石など北前船に関する資料が集められ、北前船の歴史と文化を今に伝えています。
角海家
幕末から、汽船や鉄道が出現する明治期までの間、活躍した船問屋。最盛期には7隻もの北前船をもち、栄華を極めました。角海家の住宅は、典型的な船問屋形式の豪壮な建築で、県の文化財に指定されています。
あての元祖
樹齢800年、文治五年に源氏の流れをくむ、泉三郎忠衛が奥州平泉より持ち込んだと言われています。周囲4m、高さ27mにも及ぶ大樹が2本並んでいます。見上げれば首が痛くなるほどです。民家の裏庭のような場所にあります。下のほうの太い幹は枯れていて防腐剤処理がなされています。これが全部生きていた時はさぞ見事だっただろうと想像できます。雄大というよりはその古さから幽玄と言ったほうがぴったりくる感じです。現在、アテの木は能登の山林に広く植林されて、その堅牢さから住宅用材や輪島塗の素地として用いられています。このアテの巨木はその元祖と言われています。
曽々木海岸
冬の厳しい日本海の荒波をまともに受ける男性的な荒々しい海岸線が続く曽々木海岸。そのシンボル的な存在として「窓岩」があります。板状の岩の真ん中に直径2mほどの穴が開いている奇岩です。窓岩の前には「窓岩ポケットパーク」があり色々なイベントが行われたり記念撮影に最適です。冬季は波の花が大量に発生します。また、曽々木海岸沿いにある「垂水の滝」は高さ15mの断崖から直接海へ落ちる珍しい滝で、夏はシャワー代わり、冬は日本海から吹きつける強風のため水が舞い上がり滝でありながら水が落ちてこないという不思議な現象もみられます。曽々木海岸から目の前の岩倉山遊歩道を登る途中に「千体地蔵」があります。流紋岩の柱状節理が発達し、あたかもお地蔵様が並んでいるように見える奇妙な光景です。
御陣乗太鼓
名舟町に古くから伝わる太鼓で、天正5年(1577年)、上杉謙信の能登攻略のとき、古老の一計で、奇妙な面を付け、陣太鼓を打ち鳴らし上杉軍に奇襲をかけ敗走させたのが始まりといわれる。
輪島塗
1,000年の技を伝える輪島塗。その堅牢優美な色と形を是非足をお運びいただきゆっくり味わって下さい。ですのでここでは輪島塗の画像はあえて掲載いたしません。 重要無形文化財として、世界でもその名が知られる輪島塗。その堅牢さは、輪島産の珪藻土からできる「地の粉」を下地に混ぜたり、木口に麻布を張り付けたりする、独自の工法によって生まれます。そのため製品を完成させるまで、少なくとも20工程100以上もの手数を要します。沈金、蒔絵など装飾技法も特徴のひとつです。こうした伝統工法を守って生まれる高級品や芸術品はもとより、最近では若い世代が中心となって、現代感覚を取り入れた作品や生活用漆器も誕生しています。輪島市に輪島塗が発達したのは、近くに漆器の原材料である「けやき」「あて」「うるしの木」などが豊富にあったので、このような原材料を使って、寺や神社のお椀やお膳を作ったのが始まりとされています。 その後、江戸時代の後期から農家や商家へ販路を広げ、明治時代からは、料理屋、旅館などでも使われだしました。今日残されている輪島塗の古い製品としては、1397年ころに作られたと思われる河井町重蔵神社社内陣の扉や、1735年ころに作られたといわれる朱塗膳や飯器、椀一組などがあります。 今日の輪島塗が形成されるまで、また、その後受け継がれてくるまでは、第2次大戦や長崎国旗事件など、うるしの入手が困難な状況や技術者の減少などがありました。こうした困難を一つひとつ乗り越えて、世界に誇る「伝統工芸輪島塗」が継承されてわけですが、昔から今日まで一貫して輪島塗を支えてきたものは、漆器づくりに携わる人々の「良いもの」を作ることにかける心です。 輪島塗の最大の特徴である堅ろうさの秘密は、下地塗に地の粉(江戸時代の中ごろ、発見されたけい藻土のを焼成粉末にしたもの)を漆に混ぜて木地に2回、3回と塗り重ね、下地を固めていく技術や、お椀の上縁や糸底など損傷しやすい個所へ漆で麻布をはり、さらに下地塗の際、破損しやすい上縁などに生漆を塗る「地縁引き」をすることにあります。そして、こうしてできた輪島塗を製造した塗師屋(ぬしや)自身が直接全国各地を売り歩いたので、商品に対する信用も増し、次第に販路を拡大していきました。また、単に商品を売るだけでなく「なおしもの」といわれる破損した塗物に修理を施し、再び使用できるようにしたため、輪島塗は“一生使えるもの”といわれ、大切に扱われ、信用も少しずつ積み重ねられてきました。 交通機関が発達していなかった以前は、背中や両手に荷をたくさん背負い、歩いて行商に出かける姿が一般的だった。時代の流れとともに、交通機関の発達で得意先回りも販売の仕方も便利になりました。しかし、輪島塗を扱う人たちの「輪島塗を大切にし、愛する心を持って販売する」という思いは、今も昔も変わることがありません。
舳倉島
平成13年に舳倉島・七ツ島が全国重要湿地のひとつに選ばれました。輪島港の北方約50kmに位置し、周囲約5km海抜12.4mの平坦な島である。絶海の孤島であるため厳しい日本海の荒波を直接受け、複雑な入り江や北西側の海岸は高さ10mにおよぶ断崖がつらなります。
絶好の漁場であり夏には海女(あま)たちがアワビやサザエをとるため海に潜ります。本島は対馬海流(暖流)の影響下にあって、好漁場であることから島渡りの歴史は古く、島の南西端に5世紀半ばと8世紀後半の「シラスナ遺跡」貝塚から、当時の食糧となった魚介類、海洋性ほ乳類の骨、牛骨などが出土し、このころすでに専業的漁業集団が漁を求めて島渡りする季節移住の跡が見られ、今日に至る潜水漁法や網漁による生活パターンが当時の人々によって展開されていたことがうかがわれます。
この人々が歴史の変遷を経て、越冬するようになったのは大正時代の末期からと言われ、昭和6年に灯台が完成し職員が常駐したため、これが刺激となって越冬も年々増加してきました。昭和32年離島対策実施地域の指定を受け、漁港の改修、発電施設、離島航路の開設など基礎的な定住環境が整備され越冬から定住化へと変化しています。また、本島北方沖合いには白山瀬、大和堆など好漁場が開発され沿岸漁業、沖合漁業の基地として大きな役割を担っています。
舳倉島は、バードウォッチングの穴場であり、日本でここでしか見られない渡り鳥も多いです。野鳥の繁殖地、休息地としても有名です。季節を問わず多くのバードウオッチャーが訪れ、鳥たちの姿やさえずりを楽しんでいただいています。野鳥観察に最適な愛らんどタワー(簡易水道高架配水塔)ができました。島へは定期船が一日一往復しています。